協会結成の趣旨
地方官庁で広報活動を行うようになったのはいったいいつ頃からか、の問いに、それは敗戦後わが国に駐留したアメリカ軍軍政部による行政民主化指導がはじまった直後からだ、と答えるのが今日の定説となっている。
破壊された国土の建設、混乱する秩序の収拾、政治経済機構のたて直し、衣食住安定への希求等々、山積みされた戦後課題に対応し処理していくためには、やはり、国、地方問わず政治、行政の指導力の発揮以外にはなかったといえるし、そうした政治、行政に民主主義の思想を植えつけることがまず先決、とアメリカ軍軍政部は考えたのだろう。こうしたことを裏付けるように、「日本広報協会15年史」では次のようにのべている。
『(前略)思い起こすと、「広報」というその当時耳なれなかった言葉が行政の中に導入されたのは、戦後の混迷の時代、アメリカ占領軍の示唆によるものでした』
また、本県広報事業の初期指導者でもあり、広報協会創立への水先案内人となっていただいた、わが国広報界の大先達、元全国広報研究会常務理事、樋上亮一氏の著書「広報の盲点と焦点」にも当時、樋上氏が勤務していた富山県の知事が軍政部からP・R・O(パブリック・リレーションズ・オフィス)を早急に設置するようにといわれ、樋上氏に相談をもちかけたときのあわてぶり、困惑ぶりが仔細に記述されている。
昭和22年12月、知事室に呼ばれた樋上氏は、知事からP・R・O設置要請に関する文書を見せられた。文面は大体次のようなことであった。
『当軍政部ハ、県行政ノ民主的ナ運営ヲ推進スルタメニ、知事室ニP・R・Oヲ設置サレルコトヲ希望スル。P・R・Oハ政策ニツイテ正確ナ資料ヲ県民ニ提供シ、県民自身ニソレヲ判断サセ、県民ノ自由ナ意思ヲ発表サセルコトニツトメナケレバナラナイ。
P・R・Oハ知事ガ外来者トノ面接ニ要スル時間ヲ、可及的ニ少ナクスルコトニツトムベキデアル。
P・R・Oノチーフハ、次ノヨウナ条件ヲ備エルコトヲ必要トスル。
樋上氏は、この一件につき、これは単なる軍政部の示唆ではなく<指示、命令>であると解釈した。このあと、知事から、そうした機構設置の研究、準備について内命を受けるのであるが、この日から『むつかしいとこを引き受けたものである。だいいち、P・Rということがよくわからないのだから、何から手をつけてよいのか、カイモク見当がつかない』樋上氏の多方面への訪問、聞きこみが続けられることになる。とどのつまり、樋上氏の結論は、P・R・O=公聴室ということになるのである。
すでに泉下におられる樋上氏の書かれたものを無断で借用してしまったが、このことはひとり富山県だけでなく、当時の日本全国の県庁のすがたであった、といっても過言ではないだろう。
日本国中の官庁が、「PR」あるいは「広報」という新しい仕事の概念がわからない、つかめないといった状態から、”広報”の仕事がはじめられていったのである。