協会結成の趣旨
広報協会の歩みを語るには、その誕生の母胎となった県広報の歩みから説きおこさなければならない。それにより広報協会という県外郭団体の出自をおのずから明らかにすることができるからである。
昭和20年11月6日、アメリカ占領軍が静岡市に進駐した。そして翌21年3月に県庁、日本銀行静岡支店ビルに、駐留軍は静岡軍政部を設置し、占領政策遂行と治安維持に当たったが、同時に地方行政民主化のため精力的な活動がはじめられた。昭和21年5月7日現在の静岡県職員録によれば、知事官房に文書課(11人)が設けられ、12項にわたる事務をとりあつかっている。そのなかで
の3項にわたり”広報的事務”が見える。文書課という名前は、途中総務部に所属となるが、23年度まで続く。
昭和22年5月、地方自治の規定を盛りこんだ新憲法が施行された。ついで昭和24年7月、静岡軍政部の名稱が静岡民事部と改稱、同年11月、静岡民事部は閉鎖、以後本県は関東民事本部の指導、管理を受けることになったが、弘報関係も関東民事本部の指示により事務及び啓蒙宣伝を行うようになる。
前述したP・R・O設置に関する軍政部の示唆は、すでに昭和22年に出ているのだが、本県の場合は、研究過程なのか、とくに目立った広報機構の変化は見られない。
昭和24年、知事公室弘報課が設置された。はじめての広報専門課の誕生である。分掌事務は
となっている。この時期は、戦後の民主化政策により膨張の傾向を示した行政機構の合理的改革が全国的に実施されており、広報機構もまた、県行政事務改革の余波を受けて所管、分掌事務の二転三転を余儀なくされていたのである。だが、ここへきて「県政に関する正確な資料を一般県民に提供し、県政に対する県民の理解と関心を深らしめると共にその協力を得るにある」を目的とする専門事務実施の基礎固めができあがり、本格的活動が開始された。
昭和24年5月15日、「県政だより」を創刊した。タブロイド判4ページ、毎月1日、15日の2回発行、1回につき11,000部印刷し、市町村を通じて各家庭に回覧(約40世帯に1部)した。創刊号には「発刊の言葉」として小林武治知事が
「(前略)県民の皆様にさしあげる県からのお便りでありまして、これによって県と県民の各位との意思の疎通をはかり、又県の行政が私共の独りよがりにならぬように戒めると共に、県民の方々に県政は自分達のものであるという県政に対する親しみと関心を持っていただくための使命を(後略)」と力説、広報活動にこめる熱意を示している。
「県政だより」は、昭和25年4月から、内容充実と回覧による周知徹底をめざし、毎月1回(15日発行)、印刷部数44,000部(約10世帯に一枚を回覧)となった。他の媒体としては壁新聞「県民お知らせ」を同年5月から制作、市町村の掲示板を利用して県政情報を伝達した。なお、同年9月には弘報自動車1台を整備した。この自動車には音声最大到達距離2キロメートルのスピーカー4個をとりつけて県政情報のお知らせを行ったほか防災弘報にも活躍した。
本格的な広報活動を開始した弘報課では、民主行政の推進とあわせ市町村でも実施しはじめた弘報活動への助言を目的とする、静岡県弘報委員会(県庁内関係部課、報道機関、県新聞協会、県東部新聞協会等で構成、発足時は不明)を設け、随時相談を行っていたが、さらに、県、市町村等地方自治体弘報機構の体質改善と活動の効率化をはかるため、新たに、民間有識者からなる静岡県弘報協議会を、昭和25年8月に設置した。構成メンバーは、報道関係者、婦人会、青年会、ボーイスカウト、PTA等の代表者8人であったが、広報媒体についての検討、助言を強化するため、同年12月、前記会員に商工会議所、観光団体、弁護士会、女子青年団、百貨店の代表17人を加え組織を固めた。官民一体25人の会員は、毎月第2木曜日に会合を持ち自治体広報活動の向上につとめた。
弘報課は、昭和26年5月に弘報企画課と名前が変わった。戦後民主主義行政の事務量増大にともなう行政諸機構の膨張がようやく抑止され、かわって総合開発の機運が盛りあがってきたのに対応しての措置で、弘報企画課は、従来のしごとに加え、総合開発企画事務をも担当することになったのである。しかし期間は短かかった。さらに簡素化、合理化を推し進める県機構改革により、昭和27年4月、知事公室は廃止され、弘報は総務部に移り、弘報文化課をなった。総勢22人、庶務、弘報文化、学事の3係をもつ弘報文化課の事務内容は
をはじめ、大学、旧制高専、私学、学校職員給与等のほか米国留学生関係、宗教法人等までの広範囲に及んだ。
弘報活動の内容は
などである。以後、年々内容充実につとめていった弘報文化課の事業は、昭和30年から県民会館に移り、名前も知事公室県民会館広報係を改まるのである。