協会結成の趣旨
市町村が広報活動に取り組みだしたのは、県が弘報課を設置し「県政だより」発行など本格的に広報事業を行うようになった、昭和23年前後からである。このことは、軍政部による行政民主化の示唆、指示が県を通じて市町村行政に伝達されたいたことを物語る。しかし、ここでも広報の概念を理解するのに長い時日を要した。戦争中の旧体制から民主主義行政への移行があまりにも急であったため、広報活動実施の前段階とでもいうべき、新しい理念にもとづく、行政ポリシーの確立が遅れていたからである。このことを証明するように、県政概要記載の昭和26年度事業説明の項でこういっている。
『民主政治は地方自治から生まれ、地方自治とともに育ち、地方自治とともに成長するといわれている。
民主政治の母体ともいうべき、地方自治体の行政が円満に運営されるには、主権者たる住民から支持と協力を得なければならないのである。そのためには、住民に対して行政の現状について常に報告するとともに、住民の意思を聴く義務があり、また、住民はこれを知り要望を述べる権利をもっているわけであるl。
こういう意味から、もはや弘報活動をともなわぬ行政はあり得ないし、特に広聴活動はその重要な一面である。
ひるがえって、わが国の地方自治の現状を見ると、民主政治とはいうものの揺籃期にあるので、地方自治の振興確立をはかるためには、住民に対して知らせるというだけでなく、民主政治教育をあわせて行わなければならない』
これは、戦後から、26年度現在までの県内広報情勢について回顧しているのだが、いわゆる「お知らせ」のしごとと同時に、弘報をとおして市町村行政についての啓蒙を行うことが必要であるとのべている。
事実この時期には、市町村広報関係者は広報機構の確立と広報技術の習得をめざすため、県から講師を招き研修をたびたび行っている。と同時に”住民教育”というむずかしい課題にも取り組みはじめていたのである。
ソフト面の未熟はおおうべくもなかったが、ハード面の活動は進み出していた。広報紙の発行である。昭和26年3月末調べの資料によると、74市町村が広報紙を発行していることになっている。実際はもっと多いのかもしれないが、手許に資料がないのでわからない。ちなみに、当時の市町村数はつぎのとおりである。市12、町47、村231、総計290(昭和26年3月23日現在)。広報紙を発行している市町村は、全体の25.5パーセントにあたる。
昭和22年5月、地方自治法が施行され市町村行政の自主性、自立性の強化がうたわれ、以後関係者の努力が続けられる。しかし、法施行後日なお浅く、自治の理念はなかなか普及伝播しなかった。そこで地方自治に関する知識をかん養するための、いわば訓練の時代がしばらく続くことになる。
また一方では市町村配置分合及び境界変更、市町村制施行、議会問題や住民問題等々、解決しなければならないことが山積みしており、そうした状況をふまえての広報紙発行であった。しかも、そういう時代であるから広報事務を専門に扱う機構などない。おおかたは総合事務系統の職場や公民館、教委事務局の片隅で、いくつかの仕事を兼務しながら、新規事務ゆえの白眼視に堪えつつ悪戦苦闘を続けなくてはならなかった。したがって、現在のように企画を重視するなんてことは考えられない。じっくり考えている時間がないのだ。多くはその時点での「報告」や「お知らせ」だけ。紙型も、お知らせのものを並べるのに向くタブロイド判が圧倒的であった。しかし、先に述べた「住民に支持される地方自治行政とともに歩む広報」への夢が消えてしまったわけではない。昭和30年代の中期から後期にかけ、広報は行政にとって不可欠な存在であるという考え方が定着し、試行錯誤を続けてきた市町村広報活動はようやく陽の目をみることになるのである。