協会結成の趣旨
昭和29年7月、静岡県民会館がオープンした。県庁と向い合う白亜の4階建ての会館面積は1,100総坪。他県に先がけてつくられたこの会館は、前の広場がじかに街路とつながり、会館内のピロティにも水平に続いているという、その頃の官庁建築物としては異色の構造であった。
「道路から広場、それから広間―は、歩道の延長であると同時にたのしい集いの場であり、さらにこの空間は、県民とつながって存在する県民会館の社会性を象徴するものだといえた。人々が心易く集まり、話し合い、睦み合っていく内に個人の教養が高められ、そこから新しい村づくり、県づくりへの底力がつちかわれていくような場所でありたい、というのが会館を建てた人々の願いである」と県政概要でも説明されている。
県民会館の役目は
その、県民会館へ昭和30年7月、県庁から広聴、広報の機能が移り知事公室県民会館広報係が設けられた。さきの4つの命題に新たに
の使命が加わったのである。他の府県では、その仕事の重要性のゆえに、とくに知事公室直属を慣例とする広報機能が、県庁をはなれ、県施設とはいえ民間団体活動の拠点に移るという画期的なできごとは、”異例の事件”として、当時県庁内外に物議をかもした。だが斎藤寿夫県知事の強力な支持をバックに、県民ニーズを行政に反映させようとする県民会館の活動は明るく、正しく進められていった。
職員を統括する塩谷一夫館長のモットーは、
「広報活動の活発化をはかるということは、新しい時代の行政を担う者がすべて持たなければならない”政治感覚”発露の第一歩」であった。広報とは単なる技術にあらず、それは”行政の理念”である、と断言しているのである。先見の明をもつ将の下に弱卒なしのたとえを証明するかの如く、県民会館の広報スタッフは、文字どおり県民の中にとびこみ次々に難題に挑戦し、新しい仕事をつくりだした。
広聴活動は弘報文化課時代から行っていた。昭和28年からはじめた「緑の公聴カード」による相談、苦情処理事務である。県庁各課に配った公聴カードに記載される事項は、県民の身辺雑事から県政への意見まで千差万別、それを整理分析したうえで、ひとつひとつに回答し、また関係部局課等への取りつぎを行うのである。もちろん民意を県政に反映させることが第一義であるが、同時にそれは「自信ある県政運営」「狙うべき的をもった広報」へつなげる重要な仕事であった。
広聴業務は、県民会館へ移ったあとも「県民相談室」を設置するなど活発に続けられ、昭和31年4月、本格的な広聴調査活動への布石とでもいうべきPRD(パブリック・リレーションズ・ディレクター)の組織をみるのである。PRDは、県庁職員、市町村職員、民間人からなる県政ご意見番で、人選に当たっては、県民会館広報係が計画したが、とくに民間人を委嘱する場合には職員が直接現地に出向き、一人一人説得して回った。
昭和32年3月末、県下のPRDは700人である。内訳は、民間人の地域PRD300人、市町村PRD120人、県庁PRD200人、各種団体等PRD70人となっている。PRDの31年度事業としては、県下20地域で会議を2回、3ヵ所で研修会を3回のほか、随時レポートによる情勢報告、アンケート調査等を行った。それらの結果は、昭和32年、機構改革により新設された広聴調査課で「PRD報告を中心としての県民会館PR活動」として冊子にまとめられた。さらに、県民会館では、広聴調査活動で得た資料からテーマを選び、科学的な調査を行い行政の指針として役だ出ようとはかる。折から全国規模で展開されていた町村合併、新農村建設事業の2つをモチーフに、東京大学社会科学研究室の応援を得て昭和32年に行われていた「湖西町に見る合併町村の実体」調査活動がそれである。「自治体広報はその効果をあげているか」も、32年にまとめられた世論調査報告書である。
昭和31年6月「県民だより」が創刊された。昭和25年から発行を続けてきた「県政だより」を改題したものである。タブロイド判4〜6ページで毎月発行。1回60,000部印刷して、平均10世帯に1枚のわりで、市役所、町村役場を通し回覧をいう伝達方法は以前とかわりない。しかし、昭和34年10月号から60万部に印刷部数をふやし、市町村経由で全戸配布にふみきった。「東海道高速道路の建設・総力あげて実現・3県(神奈川、愛知、静岡)が猛運動」のトップ記事が物語るように、国内経済のめざましい発展にともない、衣食住にゆとりの出てきた住民ニーズに応える情報伝達に回覧制では不似合いだったからである。ちなみに従来の「弘報」から「広報」にかわったのもこの頃である。「県政資料」(昭和31年1月から月刊。B5判24ページ、4500部を印刷し、市町村、学校、農、漁協、婦人団体、青年団などに配布した。内容は「県民だより」にもりこみ得なかった県政解説や各種県内事情の紹介である。
「県政ニュース」(35ミリ、白黒で一巻が10分)は、昭和27年に制作をはじめてから31年までに、28本に達した。これらを随時プリントして市町村、団体等に無料貸出ししたほか、県内の常設映画館150館で上映、また県教育委員会の移動文化館、県民会館の移動映画班によって県内各地で上映、好評をえた。昭和31年には四本制作したが、2本目の共同募金啓蒙映画「ひまわり日記」(四巻)は、全国PR映画コンテストで厚生大臣賞を獲得した。県政ニュースは、昭和42年度から「県の映画」と改題された。その後、映画人口の減少にともない、16ミリ化、カラー化など幾多の推移を見ながら、やがてテレビ映画へと変っていくのである。
このほか、特記すべきものとして、広聴関係では「県民室活動」(昭和31年から)、「移動相談」「官公庁公団機関の組織化」「世論調査」、広報関係では「熱海市泉地区紛事時のPR活動」(昭和31年)、「第12回静岡国体開催PR」(昭和32年)、「狩野川台風時の災害広報」「昭和33年)、「選挙公報」などがある。また、郷土をよくする会、県婦人団体連絡会、県青年団連絡協議会、県教委等を結んだ、”文化広報”事業などがあげられるが、ここでは割愛する。
要するにこの時期は、それまでの模索、試行錯誤、討議の連続という日常からの脱皮をはかった県行政広報が、県民会館という本格的活動の場で、研さんの中からつかんだPR理念を広く世に問おうとしていたのである。
激動する社会情勢、価値観の変化に伴う新たな住民ニーズ、ますます複雑多岐をきわめる行政事務、そうした中で、増大する情報量の収集、選別、分析、伝達に日々心を砕く県民会館の広聴、広報関係者が考えたのは、より確かな県政広報を広く展開していくためには、市町村をはじめ各種団体、企業などと連携をはかり、「県ぐるみPR活動」の推進をはからなければならないということであった。そこから必然的に県広報協会設立への構想が生まれることになったのである。